たとえその一歩が小さくても、歩み出すことが素晴らしい。

文章を書くのが苦手だからこそ

僕は小学生時代から国語と言うものを軽視していました。学生同士のコミュニケーションの中で、日常会話以上の日本語力に価値を見出せなかったから。本を読むのも好きではなかったから、僕の話す日本語は僕の周りにいる人の使う日本語の表現に依存したものでした。ブログを開設して、ほかのブロガーさんの文章を拝見させていただくことが増えて、自分の表現の幅の狭さを痛感した。

路傍

変態性

陳腐

苛烈

大言壮語

艱難辛苦

旧態依然

瑣末

無粋

どれも僕が使うことのなかった語彙であり、表現だった。

人と違っていて妙にこだわりのあることについて「変態性」と言う言葉を使うのってすごいな!って思った。しっくりくる。伝わりやすい。なおかつインパクトがある。

艱難辛苦だってそう。辛い、苦しいと伝えるよりもこの物々しく複雑な漢字を添えるだけで表現がリアリティーを増す。すごく辛くて苦しそう。

 

僕が意味がないと避けていたものが21になって無視できないものになった。

僕が書く文章はまとまりがなく、表現が浅く、ユーモアも少ない。

だったら苦手は訓練を積んで得意に変えるしかない。

 

苦手と感じるのは経験、成功体験が足りないから

僕は友好な対人関係を築くのが苦手です。

振り返れば幼稚園に入園し、家族以外のコミュニティで生活する時間が増えてからというもの、自分から声をかけて仲良くなったという友達が1人もいない。

これは別に外の世界に興味がなく、内の世界に身を置いていたからではありません。

単にコミュニケーションが苦手だった。

それに加えて煩わしさも多少は感じていた。

傷つくくらいなら1人でいた方が楽だって。

無理して自分から声をかける必要ないって。

そうして他力本願な対人関係の構築を重ねてきたことで、自分から友人を作ることができなくなっていた。

これも経験不足に起因する苦手だった。

 

ハードルの低いところから段階的に

苦手を克服する時は一歩ずつでいい。

たとえその一歩が小さくたって確実に前に進んでいるから。

焦って一段飛ばしで進もうとすれば躓いて怪我をしかねない。

擦り傷程度で済めば問題ないけど、その先へ進むことができなくなるくらいの大怪我をしては本末転倒。

だから僕は文章はブログから始めたし、対人関係はサービス業から始めた。

ブログは自由に自分の考えていること、発信したいことを表現できるし、スマホがあれば書きたいときに好きなだけ書ける。

よし!ブログ書くぞ!

って意気込む必要もなく、本当になんとなく書きたいなって思ったときに書けるのは始めるまでのハードルがかなり低い位置に設定されていると思う。

サービス業は正直辛いことが多い。

お客さんにはすごく丁寧な方もいれば、横柄な人もいる。小さな子どもから杖のおじいちゃんまで年齢層も広い。

だけどお金をもらっている。

もし傷つけられても、お金をもらっているからこれも仕事だと言い訳ができる。逃げることができる。

さらに客層が広いということは、さまざまなパターンの人とコミュニケーションを取れる機会があるということ。

学校にいるうちは毎日同じクラスの人としか接することがなかった。

 

最後に

弱点を克服するための環境は慎重に選んでほしい。

どうしようもなくなったら一度全てを放棄して階段の一段目からまた登り始めればいいんです。

それでも苦しかったら別の階段を探せばいい。

これは自分を励ます言葉でもあります。

情けないことに僕は人様の心配をしてる場合ではないくらい問題山積みでして笑

自分の課題から逃げてばっかりのくせに偉そうな口で他人に説教たらしてるんです。

他人に首突っ込む人ほど自分のことから逃避してるもんです笑

ただ、僕の言葉で少しでも勇気を与えられるなら少しくらい強がってみてもいいかなと思いまして、長々と書いてみました。お終い。