子は親を選べないとか言うのもううんざり。
ロッカーに乳児を遺棄する事件。
ただただ痛ましい。
大概この類のニュースには、子どもを育てる覚悟だとか責任のない親の元に生まれた、ただただ不幸な子という評価がなされるか、子どもを育てて行くことがアルティメット級の難易度である社会にも問題があったという憂いの声があがる。
僕自身似たような感想を持つ。
でも疑問に思うことが、なんでロッカーに遺棄するのか。
それはもしかしたらもしかすると、親側にどうしても拭うことができない罪悪感があるからじゃないのかな。
例えば僕が赤ちゃんを殺す立場であったなら絶対にロッカーに遺棄しない。
遺体そのもの、もしくはその一部がこの世界に残っているだけで不安でしょうがないから。
いつ発覚してもおかしくない状態のまま、毎日食って、寝て、働くのは非常に難しい。
だから遺体が見つからないように燃やすなりなんなりして、この世から存在そのものを消そうと試みると思う。
でも乳児をロッカーに遺棄する親はそれをしない。
僕には、罪悪感以外の答えが思い浮かばない。
自分の手で直接的に殺すことはできない。
でも死んで欲しい。
また、遺体が発見されないまま自分がのうのうと生きていくこともできない。
こういった心理が働いて、おそらく親は子をロッカーに遺棄するんだと思っている。
でも本当に子を殺さなければならないのか。
なぜ自分の子を自分の手で育てられないと自覚した段階で、(子を殺すのではなく)育てることを放棄できるシステムが機能しないのか。
最初に言ったように、子どもを育てる覚悟、責任のない親の元に生まれ、挙句殺されてしまう子を見るのは心苦しい。
でも、非難を子殺しの親に向けたところで殺された子どもは戻ってこない。
子育ての能力が無くても子どもを育てていける仕組みや、それも難しいのであればいっそ親が子を捨てられる仕組みを構築しなければ、この痛ましく、悲劇的なニュースは絶えることなく報じられるんじゃないか。
親元で暮らす子が幸せで、そうでない子どもは不幸せであるのならば、そんなシステムは害でしかない。
でも、現にこうして子が亡くなっている。
悲劇を目の当たりにしている。
こんなことが起きてもまだ、親元で死ねて幸せだったねと言えるだろうか。
そんなのおかしくないか。
例えば僕の予想が当たっていて、子をロッカーに遺棄する親に少しでも罪悪感が芽生えているのであれば、子が亡くなることは親だって望んでいない。
もしも子を育てる環境が整っていれば、こんな悲惨な事件が起こらなかったのだとしたら、そこまで追い込まれてしまった人たちを救うことができなかった、僕を含む社会全体にも責任があるんじゃないかと思いました。
正義感とかそんな安いものではなくて、単に自身に同じ事態が降りかかるのが怖いから。